そんな合宿免許をイマドキの大人女性の皆様に

プロペラは「手の工作」によらなければならなかったが、本田氏はここを見事に解決した。 カッターとプロペラの接触速度はカッターの自動的進退によって肉の厚薄にかかわらず常に削られ、仕上げも同一機械で行なわれる。
荒削りから仕上げまでの所要時間は約〇時間、しかも操作は単純で未熟練工が同時に二〜三台の機械を受けもち得るから、その能率は在来の「六倍の工作」に比較すれば何十倍に相当する。 その威力を発揮する日が鶴首して待たれているが、さらに氏は従来の金属プロペラより軽い鉄板製の中空ベラ製作の原理を考案、アメリカの中空ベラに一泡吹かせようといま特許出願中である。
また四軸旋盤とは旋盤を四つ合体したようなもので元々ビストン・リング製作用に考えられたのが航空機部品の製作に応用でき先月二十三日激賞した軍需省の斡旋で視察にきた理研、日ピ、その他全国の関係専門技術家も舌を巻いた。 リング一本削る間に三本分の「手間の遊び」のあることに気づいたのが考案の動機。
これもまた末熟練女工が腰掛けながら操作して、男子熟練工の四倍の能率を上げ得る。 日米技術戦に突き進むこの「無名技術専務」の情熱と才能は正に航空技術戦に。
頭地を抜くものといえよう。 私のスピード、の憧れはすでに少年時代からはじまっている。
このスピードの夢では、私に忘れられない思い出がある。 私がまだ浜高工の講義を聴いていたころのことであった。

暇を見て自分でつく上げたエンジンを使って、競走用の自動車を組み立てたことがある。 でき上がってみると、その成果を実地に試してみてなるのが人情だ。
そこで私は、当時、多摩川べりで開催されていたレースに出場しようと決心をした。 もちろん、私は自信満々であった。
優勝はしなかった。 ところがそのときのスピードに託した自分の情熱と興奮が忘れられず以来、自動車競走があるたびに日本の各地、出かけるようになった。
そしてあるときには勝ち、あるときにはみじめな敗北を喫したこともあった。 ときには優勝の栄をかちえたこともあった。
そうして何回目かのレースに出場したときのことであった。 忘れもしない昭和十一年七月、私が三十一歳のときであった。
コンクリートでかためられた広々とした競走場は、青々とした草地を片側に、その反対側には観覧席があく、観客でうずまっていた。 私の目前には一直線に幅広いレース二フィンがひかれ、そのくっきりした白線が芝生の緑や場外の緑ととけ合うあたりに、赤い旗が左右にゆれていた。
エンジンの調子を見るのに余念のない選手たちが、七人、八人と私の視界に映っていた。 私たちはお互いに、けたたましいエンジンのひびきも聞こえぬ気に整備に打ちこんでいた。

私はすっかり興奮していた。 助手席に座った弟も同じ気持ちのようであった。
私たちの車はフォードをレーサーに改造したもので、スピードはもちろん、急カーブにも絶対転倒しない特殊設計のものであった。 「いいか、俺のエンジンよ。
がんばってくれ、勝つのだ。頼むから勝ってくれ」と私は心のなかで祈りながら、私の苦心の作である自動車の胴体を軽く叩いた。 丸首のジャケットが首をしめているように、いつまでも頭から血をおろしてくれないように感じられた。
いつものことながら、ビザがガクガクしている。 やがて、スターターの吹く用意の呼び子が鳴った。
一瞬、周囲の空気が凍りついたかのように思われた。 車中にかがんだ私の視界にガラスをとおして遠いゴールの標識がチラチラと私を誘っているかのように隠見していた。
号砲一発 く スタートはきられた。 私はスロットルをいっぱいにひらいた。
愛車はすさまじい音響と共に猛烈な煙を残して巨大な弾丸のようにとび出した。 エンジンのうなりが私の内部でも振動しているように感じられた。
私は、その感じのまっただなかでハンドルを操作する。 平坦なレース距離の端まであたかも走る雲のなかに私の車がまきこまれていくような感じだった。

百から百十〜百二十キロとスピードはグングンと上昇した。 レースは予定通と私たちの圧勝で、ゴールが目前に大きく見えたとき、突然修理中の車が横からくラックに入って来た。
あわや激突! 次の瞬間だった。 私の車は二、三間もんどうってはね上がった。
あっと思う間もない。 瞬間の記憶に、ぐらっと、自分の体が大きく回転するのを感じた。
私の視界にあった外界が転倒するのが見えた。 百三十キロ以上の快速にのっていた一瞬であった。
車からはねとばされた私は地面に叩きつけられ、さらにバウンドして二度目の衝撃をうけた。 私は何も覚えがなくなった。
意識を回復したとき、私は顔じゅうに熱湯をあびたような痛みを感じた。 その激痛のなかで私は生きていたのだと自分の生命を感じとっていた。
再び私は一種の放心状態に陥りかけたが、そのとき「弟は?」と気がついた。 「ご無事ですよ。
よりまあ二人とも助かりましたね」 私の目に微笑を浮かべている看護婦の顔が見えた。 私の負傷は、顔の左半面をぶっつぶし左腕を肩のつけ根から抜き、手首を折っていた。

弟は四本の肋骨を折った重傷だった。 共に生命に別状のなかったことは幸運だったが、「人間は容易に死にはしないものだな」と変に感心させられた。
「そんなことに感心するやつがあるか。 のんきにも程ある」と叱られ、あきれられた。
いま、思いかえしてみても実にわれながら無茶をやったものだと考えられるいっぽうで、あの当時のことを懐かしく思い、または笑ましことのようにも思える。 スピードに自分自身の精神と肉体をかけることに無上の生き甲斐を感じていたことが思い出される。
いまもその夢が、観念として私の内部に生きていることはたしかである。 なお、このレースでは転倒するまでの好記録から、私たちのチームに優勝トロフィーが贈られたことを附記しておく。
終戦のときにはピストン・リングをつくつていた。 それも自動車、船、航空機の三種をやっていた。
また中島飛行機関係のエンジン部品も少しつくつていたが、その工場を半分疎開したところで終戦になった。 東海精機の時代で、静岡県の磐田にいた。
さて終戦になってみると、船も飛行機もいらないときだから、ビスくン・リングなどだれも必要としない。 完全にお手上げである。
当時はだれもそうであったがしばらくは虚脱状態がつづいたわけである。 日本全体がそういう状態であった。
そのとき食糧に困るので製塩をさかんにやったことがある。 浜松の浜辺、行って、いままでの技術を生かしてさかんにつくった。
升もって行くと米一升をもらえるから嬉しかった。 工員は千人くらいおっただろうか。
二交替、三交替でやっていたから。 ほとんど徴用的に無理してもってきた工員であるから、終戦と同時にみんなばらばらになってしまって、残ったのがそれでも三百人くらいおっただろうか。

しばらくは塩をつくりピストン・リングも少しつくつていた。 終戦の年に、トヨタから来ていた重役と意見があわず、トヨタから離れてしまった。
理由は簡単で、私にいわせればいわゆる素人(技術者から見て) は技術を軽視する向きが強く、私には不快だったからである。 トヨタでは私に手伝えといったがもうトヨタの指令を受けるのはいやだし私は生ける屍になくたりない。
また格子なき牢獄に入るのもいやだから、俺は俺の個性で仕事をするのだという考えになっていた。

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